「場所の関係で時間通り終わらなければいけないので。すみません、失礼します」

 5月9日、名古屋証券取引所5階の会見場。ブラザー工業の佐々木一郎社長はこう話し、8分で質疑応答を打ち切って席を立った。まだ複数の記者が質問のために挙手していた。

 発表時間と合わせても会見は20分ほどしかなかった。佐々木社長は会見時間の短さを場所のためだとしていたが、名証の記者クラブによれば、実際は会見場で40分もの時間を確保していたという。

 記者の囲み取材に応じず、佐々木社長は真っ先にエレベーターへと向かう。十数人はいた記者らが慌ててエレベーター前まで追うが、質問には具体的に答えずに出て行った。記者団から不祥事を追求される政治家を思わせる光景だった。

 それは、ブラザー工業が業務用プリンター大手のローランドDGに仕掛けた「同意なき買収提案」が、あっけなく崩れた瞬間だった。

ブラザー工業の会見を動画で撮影した。「ローランドDGによる事実誤認や根拠を欠く主張を繰り返す不誠実な態度から、今後ローランドDG経営陣との信頼関係を築くことは見込めない」と佐々木社長が批判した。

 相手先企業の経営陣が同意しなくてもM&A(合併・買収)を提案する「同意なき買収提案」が相次ぐ。ニデックや第一生命ホールディングスなどが成功させた流行のM&A手法に、ブラザー工業も挑んでいた。

 ブラザー工業が挑んだきっかけは、ローランドDGによるMBO(経営陣が参加する買収)だ。同社は米国の投資ファンド、タイヨウ・パシフィック・パートナーズの支援を受け、2024年2月にMBOを公表。その直後の3月、ブラザー工業が当初のTOB(株式公開買い付け)価格を上回る買い付け価格で、ローランドDGに対する買収提案を発表した。ブラザー工業はローランドDG取締役会の賛同を得ておらず、「同意なき買収提案」だった。

 タイヨウ側は4月にブラザー工業を上回る買い付け価格を提示し、ブラザー工業が再度価格を引き上げるかが注目を集めた。だが、ブラザー工業は9日、買い付け価格を引き上げない決定をしたと発表。事実上、ローランドDGに対するTOBを断念した。

買収断念の最大の理由、価格ではない

 8200億円もの売上収益を誇るブラザー工業が、売上高540億円にすぎないローランドDGの買収を諦めたのはなぜか。ブラザー工業の田丸弓恵CSR&コミュニケーション部長は、「今後の信頼関係を見込めるかどうかが、買い付け価格を上げるかどうかの1番のポイントだった」と話す。買い付け価格を上げる財務的な余力がなかったのではなく、ローランドDGとの「信頼関係」が損なわれたことが最大の理由だという。

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