(前回「事業の成功は「円満な人」をナンパするところから始まる」から読む)

 ビジネスは「見える化」「類型化」で効率を上げるのが肝要、とよく言われる。それは事実だが、しかし商品や店の魅力を急速に失わせる原因でもある。

 福岡・大名にある人気店「台所ようは」には2階に続く階段がある。その階段を上がった先には、1階とはガラリと様相が変わる「ミントバーHACCA(白化)」が。自分がプロデュースするものは、店でもイベントでも、全部違うものにしていく。ここは「ビジネスの類型を絶対に作らない」という大塚瞳さんの考え方が生み出した空間だ。

「台所ようは(第1回 経営モットーは健全・健康「台所ようは」は今日もにぎやか)」は仲のいい友人と家でご飯を食べるような雰囲気ですが、2階に上がると一気に大人の夜にジャンプします。「ミントバーHACCA(白化)」は、どういうお店でしょうか。

大塚瞳(おおつか・ひとみ)
大塚瞳(おおつか・ひとみ)
料理家・食空間演出家 1981年、福岡市生まれ。明治学院大学文学部フランス文学科卒業。在学中に食と空間をプロデュースする「Life Decoration」を立ち上げて、国内外での料理、空間研究を行いながら、出張料理人としての活動を始める。場所、テーマ、食材、料理、うつわ、空間、音楽などすべてを総合的に演出する食イベントを開催しつつ、2020年、福岡市に「台所ようは」を、22年、福岡市に「食堂ミナトマル」(現在休業中)、佐賀県唐津市に「たまとり」を開業。24年3月までJR九州の「クルーズトレインななつ星in 九州」での食事も担当する。(写真:松隈直樹、以下同)
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大塚瞳さん(以下、大塚):「ようは」の半年後にオープンしたバーです。最初から「ようは」では1階と2階はまったく違う場所にしようと考えていました。

 というのは、ご飯を食べた後、ちょっと場所を変えて1杯となった時に、お店を探したりするのって、意外と手間でしょう。私自身、歩くことが面倒な人間なので(笑)、はしごしなくていいように、2階に次の場所を作ってしまえばいいと思ったんです。

「はしご」じゃなくて「階段」……。

「台所ようは」から階段を上がると別の空間が待っている
「台所ようは」から階段を上がると別の空間が待っている
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和食の2階にモヒートバー

大塚:ここの2階でバーをやりたいという人は多かったのですが、普通の空間では面白くないので、ピンとくるアイデアが出るまで半年間寝かせていたんです。

暗い店内でピンクパープルのあやしい光を発しているボックスは何なのでしょうか。

大塚:ミントの水耕栽培装置です。ピンクパープルの光は、ミントの光合成をうながすライトで、赤と青のLEDが点灯しているので、このような色になるんですね。

 この装置はミントバーのマスターを務める桐山栄治さんが見つけてきたもので、これを店に置けば文字通り、自家製フレッシュミントを使ったモヒートが作れるね、ということになり、バーを桐山さんにまかせることにしました。

桐山栄治さん(左)と大塚瞳さん
桐山栄治さん(左)と大塚瞳さん
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都会のど真ん中で無農薬のミントを栽培することは、4000軒の農家めぐりをした大塚さんのストーリーと重なりますね。しかも、その収穫を可能にしているのが、最新のテクノロジーで、舞台が築50年の古民家。このインタビューでは大塚さんの飲食店や食イベントを概観してきましたが、すべてが違う発想、違う空間になっているんですね。

大塚:私はどの仕事でも、毎回どれだけ違うものを作っていけるか、ということをテーマにしているんです。

類型に堕(お)ちない、ということでしょうか。

大塚:パターン化すると、仕事も人生もつまらなくなると思っているんです。

尽きないアイデアの源泉はどこにあるのでしょうか。

大塚:食と空間に本格的に目覚めたのは、お話しした通り、大学に入った時でしたが、私の原点はアメリカで過ごした幼少期にあると思っています。私は3歳から7歳までを、カリフォルニア州のパロアルトで過ごしておりまして。

それはどういう経緯で?

大塚:内科医の父がリウマチを専門とする研究者でもあって、その頃スタンフォード大学で研究をしていたのです。大学にある中庭が妹と私の遊び場で、週末はサンフランシスコに足を伸ばし、ゴールデンゲートブリッジを渡ってチャイナタウンに行って、そこでハトに襲われたりしたことが思い出、みたいな(笑)。

スタンフォード大学の中庭が子ども時代の居場所だったんですか。

大塚:うちの母がすごく社交的な人で、同じくスタンフォードで研究をしている人たちの家族と、しょっちゅうポットラックパーティーを開いていました。

ポットラックパーティー?

大塚:気楽な持ち寄りパーティーのことで、アメリカンな料理はもちろん、台湾から来ているファミリーのお母さんからは、台湾料理を教えてもらったりと、とにかく日常がカラフルだったことは、よく覚えています。

 私が通っていた幼稚園は、中国人、ロシア人、日本人とバックグラウンドも様々。人種だけでなく、ハンディキャップを持っている子も一緒で、イッツ・ア・スモールワールドみたいなところだったんです。

 そこでのハンディキャップについての考え方は、「〇〇ちゃんは右手が不自由なので、右手の代わりをやってあげてね。でも、左手の代わりはしなくていいから」というもので、ヘンなあわれみとか偽善とかはない。私は毎朝、仲良しの男の子にハグされて「今日もかわいいね」という言葉から一日が始まっていました。

「理想のおうちを作ってみよう」

……それ、幼稚園児の話ですか?

大塚:そう、日本の小学校に帰ってきたら、そういう挨拶がまるでなくて「あれ、ないの?」って、拍子抜けして(笑)。

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