大企業にいれば一生安泰という時代は過ぎ去りました。企業側の事情のみならず、私たちの「同じ会社で定年まで働き続けるのが幸せ」という価値観も揺らぎ始めています。会社に残るべきか、去るべきか……40代半ばを過ぎ、思い切って「会社を去る」決断をして次の一歩を踏み出した女性たちに話を聞きます。

 「55歳の役職定年によって生じる仕事の変化が怖かったから」と、49歳で退社を決意した理由を話す村瀬和絵さん(51歳)。新型コロナウイルス禍に“自分探し”を始め、27年間勤めたバンダイを退社した翌月に起業。現在は「似顔絵ぬいぐるみ」を製造・販売するファンダードの代表取締役を務めています。2004年、30歳の時には企画を担当した「たまごっちプラス」を大ヒットさせ、育休・産休を経て43歳で執行役員となるなど「バンダイを超える会社はない」と思うほど会社も仕事も好きだった中での思い切った決断。その裏には、どんな思いがあったのでしょうか。

「たまごっちプラス」の最終チェックをしていた30歳の誕生日

編集部(以下、略) 村瀬さんは43歳で執行役員になっています。会社の期待も大きかったかと思いますが、50歳を目前に退職を決意したのはなぜですか。

村瀬和絵さん(以下、村瀬) 役職定年によって生じる仕事の変化が怖かったからです。役職定年を迎えても、まだやりたい仕事があるかもしれないのに、「年齢」によって区切られて管理職から離れることで、自分で決断できる仕事の幅が狭くなってしまう。そして、自分のやりたい仕事から離れざるをえなくなってしまうかもしれない──という二重の意味での怖さがありました。

 世間では定年を迎えるとのんびり暮らして、余った時間でゴルフや旅行を楽しんで……というFIRE(経済的自立と早期リタイア)のような生き方をする人もいますが、私自身はそこには全く憧れがなくて。むしろ、90代になっても自分で小さなお店を開いているおばあちゃんのような生き方をしたかった。そっちのほうがやりがいがあるんじゃないかと思っていました。

「『定年退職』など年齢で一律に区切られるのではなく、人生の選択は自分でしたいなと思っていました。自分の意志によってではなく『働くこと』が終わってしまうのが怖かったんです」(村瀬さん)
「『定年退職』など年齢で一律に区切られるのではなく、人生の選択は自分でしたいなと思っていました。自分の意志によってではなく『働くこと』が終わってしまうのが怖かったんです」(村瀬さん)

―― 生涯ずっと現役でいたいという思いが強かったんですね。村瀬さんの今までの経歴は?

村瀬 1995年にバンダイの子会社であるエンジェルに新卒入社し、2000年にバンダイに転籍。幼児向け、女児向けの玩具などの企画を担当し、04年には「たまごっちプラス」が大ヒット。30歳の誕生日を迎えるまさにその瞬間は「たまごっちプラス」にバグが起きないかの最終チェックをしていました。

―― 「たまごっちプラス」は2代目たまごっちですよね。懐かしいです。赤外線通信機能が新鮮でした。

村瀬 でも、営業からは「余計な機能をつけるより、1代目のままのほうが売れるんじゃない?」と言われていたんですよ(笑)。8年ぐらい「たまごっちプラス」を担当し、その後はプリキュアのキャラクターチームのリーダーになりました。プライベートでは37歳で結婚、39歳で出産。40歳で復帰して次長になり、43歳で執行役員になりました。

―― もともと役員になることを目指していましたか。

村瀬 私が20代の頃はまだ寿退社が珍しくなかったのですが、私自身は結婚、出産が遅かった。育休を取る頃には、社内にも働き続ける女性が増えていました。そんな中で40歳ごろには「私で役に立てることがあれば頑張ろう」と管理職になる覚悟ができていました

―― それが一転、退職を考え始めたのはなぜですか。

村瀬 一番のきっかけは新型コロナウイルス禍ですね。