七宝
七宝(しっぽう)とは、主に金属の素地にガラス質の釉を焼きつけて装飾する技法、および、その製品。古今東西世界各地で類例が見られる。日本における名称の由来は、仏教用語の「七宝(しちほう)」あるいは「七宝瑠璃」まで遡り、時代や地域によって「七宝流し」、「びいどろざ」、「七宝象嵌」など変遷してきた。
英語圏では "enamel(エナメル)" と呼称され、有線七宝については「区切りをつける」という意味のフランス語由来の "cloisonné(クロワゾネ)" が用いられている。中国語では七宝の意味で琺瑯(拼音: fàláng; 日本語音写例:ファーラァン)というが、日本国内では同様の漢字を用いて主に鉄に釉薬を施したもののことを琺瑯(ホウロウ、ホーロー)と呼ぶ。英語圏では、樹脂由来のエナメルと区別するため、"hot enamel" と区別されて呼ばれていることがある。補足として、樹脂由来のエナメルは "cold enamel" と呼ばれている。これら以外にも世界各地に様々な類例があり、それぞれの地域における名称(内名)で呼ばれている。
紀元前の古代エジプトが起源とされ、中近東[* 1][1][2] で技法が生まれ、シルクロードを通って中国に伝わり、さらに日本にも伝わったというのが通説であるが、その道は一本道ではなく多様な経路で広まったと考えられている [3] [4]。
(素材や世界各地の技法の違いについては、「七宝 (技法)」を参照)
西欧・中近東の七宝
西欧
西洋の七宝は紀元前から存在することが知られており、シャンルヴェの技法はケルト人の遺品に見られる。七宝釉とよく似たガラスはB.C.1700 - 1800頃の古代メソポタミアやB.C.1500年頃の古代エジプト王朝の頃から作られており、帝政ローマ時代のローマン・グラス、サーサーン朝ペルシャのカットグラス、ビザンティン・グラス、イスラーム・グラス、そして、ベネチアン・グラス、ボヘミアン・グラスなどと発展している。七宝も、その流れに沿って発展したと考えられ、東ローマ帝国で洗練されたクロワゾネの技法が登場し、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の祭壇の後ろに飾られた金色の背障「パラ・ドーロ(Pala d’Oro)」や、皇帝ロマノス1世レカペノスの庶子で事実上の宰相の立場も務めた宦官・バシレイオス・ノソスが造らせた『リンブルクの聖遺物容器』(968年)は、ビザンティン美術の最も純化熟達した作品の一つとして世界的に認められている。
12世紀から15世紀ごろまでにはフランスのリモージュやパリ、ドイツのケルン、スイスのジュネーブなどでロンドボス、バスタイユ、グリザイユ、細密描画といった様々な技法が見られるようになった。 また、最高品質のシャンルヴェ製品がモサン地方で生産された。
中近東
ミナンカリ(minankari)とは、中近東コーカサス地方ジョージア国(以前の外名グルジア)のような産地で生産されている教会に飾られる宗教美術や、ジョージアン様式のエナメルを用いたジュエリーなどのこと。
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ロシアの七宝
ロシアへの技法の伝来はルーシの諸公国が登場した頃に遡ると言われている。 ロシアで最初の七宝の記述は、1175年のモスクワイパーチー年代記にあり、産業として発展したのは16~17世紀まで遡る。 18世紀以降はロストフ・ヴェリーキーで工芸品が開発され、19~20世紀にはロシアの宝石商、金細工師であるピーター・カール・ファベルジェが、エナメル(七宝)や宝石、貴金属で装飾した作品を制作している。ファベルジェの代表作であるインペリアル・イースター・エッグの中にも七宝が施されたものがある。
フィニフティ
フィニフティ(Финифть)とは、ロシアのロストフ・ヴェリーキー(Ростов Великий)のような産地で生産されている装身具や装飾品などの七宝細工(エナメル製品)のこと。 英語のエナメルにあたるエマイル(Эмаль)、ホットエマイル(горячая эмаль)などの表記も用いられている。
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中国の七宝
元・明時代
中国では七宝のことを琺瑯(拼音: fàláng; 日本語音写例:ファーラァン)と呼び、イスラム圏との興隆が盛んであった元時代(1271 - 1368年)の頃から製造されるようになり、中国渡来の品が日本にも入ってくるようになったと考えられている。
明時代の美術工芸品の評論書『新増格古要論』(洪武二十年(1387年)刊、天順三年(1459年)増補)には、既存の七宝と考えられる「仏郎嵌」に対して、「大食窯(タージよう)」、「鬼国窯」と称する外国の技術に基づく七宝があり、中でも内府(宮廷)の作は素晴らしい、とする記述が見える[3]。 この「仏郎」については、諸説あるが東ローマ帝国や西アジア一帯の地域、あるいはフランク族などを指すと考えられている。 一方、「大食」については七~十六世紀に栄えたイスラム帝国、つまり正統カリフ時代からアッバース朝(750年~1517年)までのイスラム国家やイスラム教徒のことであり、「鬼国」は西北方の外国に対する蔑称であることから、これらの国が由来の七宝と推測できる。
明時代のなかでも景泰年間 (1450 - 1457年間) に作られた掐糸琺瑯は特に評価が高く、現在でも中国の七宝を景泰藍と呼ぶ所以となっている。景泰藍は日本ではあまり例を見ない青銅を素地として用いていており、釉薬には日本の泥七宝に似た不透明な釉薬が用いられ、特に青(藍)の色が好まれた。また、青銅に施釉した釉薬が崩れ落ちないように細かな植線が全体に張り巡らされた。
清時代
清代の康煕帝・雍正帝・乾隆帝の三朝においては、特に画琺瑯が発展したが、康熙帝代にはヨーロッパの影響を強く受けた琺瑯器が製作されている。また、乾隆帝代には各種技法が融合され、中国と西洋の装飾文様を合わせた琺瑯器も製作されている。
日本の七宝
黎明期
七宝亀甲形座金具
現在のところ、日本最古の考古遺物として発見されている七宝は、奈良県高市郡明日香村にある7世紀後葉(古墳時代末期)の造営と推定される牽牛子塚古墳で1977年(昭和52年)に行われた網干善教らによる第2次発掘調査の際に、被葬者(※定説では斉明天皇)の夾紵棺(きょうちょかん)の中から発見された「七宝亀甲形座金具(しっぽう きっこうがた ざかなぐ)」2点(1個と1組)である[6](p1)(※右に画像あり)。ただし、牽牛子塚古墳より1世紀ほど古い藤ノ木古墳(6世紀第4四半期の造営と推定される。奈良県生駒郡斑鳩町に所在)から副葬品の一つとして出土した金銅製鞍金具[7]を最古とする資料もある。この見解の相違は、七宝を意味する言葉が存在したかどうかも明らかではない時代において、藤ノ木古墳のもののような表面的な観察上は熱を加えたガラス面に金物の小飾りを押し当てて固着したようにも見える品を七宝に含めるのかどうかという定義の違いや、その前提となる製造方法がはっきりとは解明されていないこと、さらにはガラス質部分が金具の主要な要素であるかどうかといったことなどによる。[8]。
これらに次ぐものについては所説あるが、 奈良時代のものとして正倉院宝物の「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)」 [9] が、 平安時代のものとして平等院鳳凰堂の扉の七宝鐶(しっぽうかん)が推定されてきた [* 2]。 その後、室町時代になると多くの七宝に関する記録が残っており、安土桃山時代の頃までには七宝が日本各地で作られるようになったと推定されている[* 3][10]。
近世七宝
近代七宝
七宝の用途
- アクセサリー
- ブローチ、ペンダント、イヤリング、ネックレス、指輪、チョーカー、ループタイ、カフス、タイピン、帯留め、バッジ、、
- 室内装飾
- 家具、取手、燭台、額、釘隠し、、
- 壁面装飾
- 屋内/屋外壁材、タイル材、看板、表札、、
- 照明器具
- シャンデリア、スタンド、屋外照明、ペンダント照明、、
ギャラリー
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13世紀のシャッセ
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銅板に釉を焼き付けたシャンルヴェ(英国, ヴィクトリア&アルバート博物館, 1554)
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17世紀の彩飾が施されたグリザイユの銘板
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擬クーフィー様式を施したリモージュ琺瑯のチボリウム, 1200年頃
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Champlevé gilt-copper reliquary in typical "chasse" shape with scenes from the story of Thomas Becket. Made in Spain, also a centre of medieval enamelling.
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Crozier, Limoges, 1st half of 13th century, with Annunciation scene.
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Detail from 13th century Limoges chasse, with a projecting modelled head on a flat background.
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Gilded silver, silver, champlevé enamel, glass paste (imitation ruby). Reliquary with the Man of Sorrows. The Walters Art Museum
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Casket with champlevé portraits commissioned by Queen Elisabeth of Romania as a gift for the artist Jean-Jules-Antoine Lecomte du Nouÿ. Khalili Collection of Enamels of the World
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七宝のビーズ
脚注
注釈
- ^ 2006年6月と2007年2月に行われた早稲田大学理工学術院の宇田応之名誉教授らによるツタンカーメンの黄金のマスク (cf. ) の科学調査(複合X線分析装置による調査)によれば、髭の部分の灰緑色の物質は長石や珪酸ナトリウムを主成分とする人工ガラスであり、七宝の釉薬に似た材料が用いられていたことが証明されている。──雑誌『金属』Vol.77 No.9〜12、アグネ技術センター。
- ^ 鳳凰堂の扉止め金具は、鳳凰堂の扉のある左右側面一間、正面三間の下框に各2個ずつ、計10個が現存しており、その青緑色の物質がガラス質(七宝釉)であるかは、科学的な分析が必要である
- ^ 近世七宝で製作年を確認できている作例は、二条城二の丸御殿黒書院帳台構(ちょうだいがまえ)(寛永3年〈1626年〉)など、江戸時代初期までしか遡れていない。──麓和善『錺 − 建築装飾にみる金工技法4 金工芸術の精華』
出典
- ^ 山下 大輔, 石崎 温史, 宇田 応之、「ポータブルX線回折・蛍光X線分析装置の開発と考古学への応用」 『分析化学』 2009年 58巻 5号 p.347-355,doi:10.2116/bunsekikagaku.58.347、日本分析化学会
- ^ “ツタンカーメン王の黄金のマスクの測定”. 公式ウェブサイト. 理研計器株式会社. 2019年4月8日閲覧。
- ^ a b "光彩の巧み-瑠璃・玻璃・七宝-", 五島美術館, p.7
- ^ 近代においてもアール・ヌーヴォー様式の金細工師・宝飾デザイナーとして活躍したルネ・ラリック(1860年 - 1945年)に代表されるような、多様なデザインが国内にもたらされたがファッション(流行)の急速な変化の中で、その人気の凋落が著しかった。
- ^ 大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 植田兼司, 福庭万里子「[資料紹介 牽牛子塚古墳の夾紵棺片 : 植田兼司氏採集遺物]」『関西大学博物館紀要』、関西大学博物館、2009年3月31日、1-55頁、2019年4月8日閲覧。
- ^ 藤ノ木古墳 金銅製鞍金具(前輪) - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 至文堂『日本の美術3 No.322 七宝』1993年。
- ^ “口絵1 黄金瑠璃鈿背十二稜鏡” (PDF). 正倉院(公式ウェブサイト). 宮内庁. 2019年4月8日閲覧。※画像あり。
- ^ 麓 和善 (2009年9月24日). “4. 金工芸術の精華 − 名古屋城本丸御殿・二条城二の丸御殿・百工比照 - 『錺 -建築装飾にみる金工技法』” (PDF). Index of /02/kazari. 麓和善. 2019年4月8日閲覧。※画像あり。
関連項目
- ケルト美術
- ビザンティン美術
- リモージュ琺瑯
- グリザイユ
- パラ・ドーロ
- アンティーク・ジュエリー
- インペリアル・イースター・エッグ
- 世界の七宝コレクション
- 明治美術コレクション
- 琺瑯
- 七宝 (技法)
- 七宝 (仏教)
- 七宝瑠璃
- 平戸七宝
- 京七宝
- 加賀七宝
- 平田道仁
- ゴットフリード・ワグネル
- 並河靖之
- 濤川惣助
関連施設
- リモージュ市立博物館 - フランス中部の都市リモージュに所在。2008年に開館。12世紀から20世紀までのエマイユを所蔵。
- 国立中世美術館 - 通称「クリュニー美術館 (Musée de Cluny)」) は、パリ5区(カルチエ・ラタン)にある美術館。中世の琺瑯(シャンルヴェ)などを所蔵・展示している。
- アシュモレアン博物館
- ヴィクトリア&アルバート博物館
- ロサンゼルス・カウンティ美術館