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ジョー・トーリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョー・トーリ
Joe Torre
2015年のトーリ
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
ブルックリン区
生年月日 (1940-07-18) 1940年7月18日(84歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
212 lb =約96.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手一塁手三塁手
プロ入り 1960年
初出場 1960年9月25日
最終出場 1977年6月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
殿堂表彰者
選出年 2014年
選出方法 ベテランズ委員会選出

ジョゼフ・ポール・トーリJoseph Paul Torre , 1940年7月18日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区出身の元プロ野球選手・監督。

兄のフランク・トーリも元メジャーリーガー。

経歴

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選手時代

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ニューヨーク州ブルックリンで生まれ育つ。1960年にアマチュアフリーエージェントでミルウォーキー・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)へ入団。同年9月25日にMLBデビューする。捕手であったが、一塁手も務めた。1963年から1967年まで5年連続でオールスターに選出され、1965年にはゴールドグラブ賞を受賞。

1969年の開幕前に元MVPオーランド・セペダと交換でセントルイス・カージナルスに移籍。カージナルス時代は名捕手ティム・マッカーバーとその後継者であるテッド・シモンズが在籍していたため、主に一塁手として活躍。1970年にはマッカーヴァーがフィラデルフィア・フィリーズトレードされたため捕手に戻るが、1971年にはシモンズの成長により、三塁手に転向する。

1971年に選手としての絶頂期を迎える。137打点打率.363を記録し、ナショナルリーグの二冠王に輝く。同年にはシーズン最多安打、最高塁打も記録し、最優秀選手に選出される。カージナルス時代の1970年から1973年まで4年連続でオールスター出場を果たす。1974年のシーズン後にニューヨーク・メッツにトレードされ、トレード後直ぐの日米野球で選手として来日(その後、2004年にMLB開幕戦で監督として再来日)した。1977年に現役を引退。選手生活18年間の通算成績は打率.297、252本塁打、1185打点、2342安打である。

監督就任~3度の解雇

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1977年途中にメッツの監督に就任。就任した当初は選手兼任監督という立場で、たまに代打として出場することもあった。1981年のシーズン終了までメッツの監督を務めるが、プレーオフ出場は成らなかった。

1982年からはアトランタ・ブレーブスの監督に就任し、1年目にブレーブスにとって1969年以来の西部地区優勝を果たすが、2年目の1983年には地区2位、1984年には3位に陥落する。

1985年から数年間テレビ解説者として活躍した後、1990年にセントルイス・カージナルスの監督として現場復帰を果たす。しかしプレーオフ進出を果たすことなく、1995年のシーズン中に監督として3度目の解雇を経験する。

名将トーリ

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ドン・マッティングリーと会話中のトーリ(2007年)

1995年11月2日にニューヨーク・ヤンキースの監督に就任する。監督としてのキャリア初期のトーリの評価は決して高いものではなく、それを象徴する出来事としてニューヨーク・デイリーニューズは"Clueless Joe"(訳の分かっていない、トンチンカンなジョー)とまで酷評した[1]。しかし翌1996年にヤンキースを18年ぶりにワールドシリーズに導き、さらに1998年から2000年にかけてワールドシリーズ3連覇を達成。長らく低迷していたヤンキースの復活を実現する。トーリが監督に就任した時のチームの顔は、横暴なオーナーであるジョージ・スタインブレナーだったが、トーリがその座に取って代わった[2]

2003年には読売ジャイアンツから松井秀喜が移籍し、日本でもよく知られる監督となる。

2007年6月7日のシカゴ・ホワイトソックス戦ではMLB史上10人目の監督通算2000勝を達成し、MLB史上初めて「選手として2000本安打、監督として2000勝」を達成した人物となった。なお、この記録は後にギネス世界記録に認定されている[3]

ヤンキース監督時代の12年間すべてでポストシーズン進出を果たした(地区優勝10回、ワイルドカード獲得2回)が、その最後の年となる2007年はディビジョンシリーズで敗退。同年オフ、球団は1年500万ドルにプレーオフで勝ち抜く度に100万ドルが加算され、ワールドシリーズへ進出すれば2009年は800万ドルで契約延長という条件を提示[4]。トーリはこの出来高を含む契約を「侮辱」と受け、契約を固辞[2]。10月18日にニューヨーク・ヤンキース監督を退任することを球団フロントに通知した[4]。これによってヤンキースは周囲から激しい批判を受けたが、その多くはファンからだった[2]。なお、ヤンキースの後任監督にはジョー・ジラルディが10月30日に就任した。

ドジャース監督就任

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それから約半月後11月1日にロサンゼルス・ドジャースから監督オファーを受け、3年契約年俸総額1300万ドルで合意した[5]。なお、ドジャースはトーリの学生時代まで地元ブルックリンを本拠地としており、トーリ自身昔から大ファンであったという。就任初年度の2008年は、若手やベテランを上手く駆使しながら見事に地区優勝を果たした。2年目の2009年も前半から快進撃を見せ、31年ぶりの地区優勝連覇を果たした。

2010年9月17日、シーズン終了後に監督を退任することが発表された。後任の監督はヤンキース時代からのコーチとしてトーリに仕えてきたドン・マッティングリーが就任した。

監督退任後

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2011年2月、MLB機構副会長に就任。2012年1月4日、副会長を辞任し、ドジャースの買収を目指すグループに参加。3月23日にMLB機構副会長に復帰。

さらに6月15日、WBCアメリカ代表監督に就任した。しかし、アメリカ代表は2次ラウンドで敗退した。

トーリのヤンキース在籍時の背番号「6
ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番2014年指定。

2014年ベテランズ委員会による選出でアメリカ野球殿堂入りを果たし、殿堂入りのプレートはヤンキースの帽子を選んだ。これを記念して古巣ヤンキースはトーリ在籍時の背番号『6』を永久欠番に指定し、監督としてはケーシー・ステンゲル(『37』)とビリー・マーチン(『1』)以来3人目の欠番指定者となり、同年5月8日に欠番表彰式が行われた。

2016年3月にはキューバ共和国ハバナで開催されたタンパベイ・レイズ対キューバ代表の親善試合に出席した[6]

2016年7月には、WBCアメリカ代表GMに就任した[7]

選手としての特徴

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■マイナーリーグ

トーレは兄フランクの足跡をたどり、1959年にアマチュアのフリーエージェントとしてミルウォーキー・ブレーブスと契約した。マイナーリーグでの最初のシーズンはAクラスのオークレア・ベアーズに所属し、打率.344で1960年のノーザン・リーグの打者チャンピオンに輝いた。

■ミルウォーキー/アトランタ・ブレーブス (1960-1968)

トーレは1960年9月25日のシーズン終盤にメジャーデビューを果たした。1961年のシーズンにはトリプルAのルイビル・コロネルズに移籍し、ブレーブスはオールスター捕手であったデル・クランドールの後継者として育てようと計画していた。しかし、クランドールが1961年5月に投球腕を負傷したため、その計画は変更され、ブレーブスはトーレをマイナーリーグでのわずか1年強の経験でメジャーリーグに昇格させることを余儀なくされた。トーレはこの機会に出世し、打率.278、21二塁打、10本塁打を記録した。彼は1961年のナ・リーグ新人王投票でビリー・ウィリアムズに次ぐ2位でシーズンを終えた。

1962年にクランドールは先発捕手としての役割を再開し、トーレはバックアップ捕手として残った[14]。1963年のシーズンまでに、トーレが先発捕手の役割を引き継いだため、ブレーブスはクランドールを一塁でプレーさせ始めていた。1963年12月、ブレーブスはクランドールをサンフランシスコ・ジャイアンツにトレードし、トーレが不動のナンバーワン捕手となった。

トーレは1964年にブレイクし、打率.321(ナ・リーグ4位)、20本塁打、109打点を記録し、防御率.995でナ・リーグの捕手をリードした。1964年のオールスターゲームではナ・リーグの先発捕手に選出された。

1965年、トーレは打率.382、10HR、24RBIを記録し、5月の月間最優秀選手賞を受賞。 1965年のオールスターゲームでは、トーレは再びナショナル・リーグの先発捕手となり、ミルト・パパスから2ランホームランを放ち、ナショナル・リーグの6-5の勝利に貢献した。トーレは1965年に最初で唯一のゴールドグラブ賞を受賞したが、野球史家のビル・ジェームズは後に、この決定は彼の攻撃的統計に影響されたものであり、ジョン・ローズボロかトム・ハラーのどちらかが受賞にふさわしかったと述べている。 同年のセントピーターズバーグ・インディペンデント紙の記事で、ビートジェネレーションの作家ジャック・ケルアックはトーレを「ロイ・カンパネラ以来最高の捕手」と呼んだ。

1966年のシーズン、ブレーブスはアトランタに移転し、アパラチア山脈のふもとの標高が高く、密集した雰囲気が少ないため、ホームランバッターに有利なアトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアムが新設された。 1966年4月12日、トーレはアトランタ球場史上初となるメジャーホームランを放った。1967年には打率.277、68打点と調子を落としたが、それでも20本塁打を放ち、4年連続でオールスターゲームに先発出場。1968年も打率.271、10本塁打、55打点と振るわなかったが、防御率.996でナ・リーグ捕手トップの成績を残した。

1969年のシーズン前、トーレはブレーブスのゼネラルマネージャーであるポール・リチャーズと年俸をめぐる確執に巻き込まれた。最終的にブレーブスはトーレをセントルイス・カージナルスにトレードし、1967年の最優秀選手賞を受賞したオーランド・セペダを獲得した。

■セントルイス・カージナルス(1969年-1974年)

1970年、カージナルスはカート・フラッド、バイロン・ブラウン、ジョー・ホーナーとともにマッカーバーをフィラデルフィア・フィリーズにトレードし、ディック・アレン、ジェリー・ジョンソン、クッキー・ロハスを獲得。アレンがカージナルスの一塁手となり、トーレは三塁手と若手有望株のテッド・シモンズと捕手を分担した。

カージナルスは1971年にシモンズを正捕手とし、トーレは三塁手に専念することになった。 トーレは打率.363でナ・リーグ打点王を獲得し、137打点でリーグトップとなり、1971年のナ・リーグ最優秀選手賞を受賞した。また、1971年のオールスターゲームではナ・リーグの先発三塁手に選ばれた。8月には2度目、そして最後のNL月間最優秀選手に選ばれた(.373、5HR、27RBI)。 12月には、フレッド・ハッチンソンの闘志と競争心を最も体現した選手に毎年贈られる1971年ハッチ賞を受賞した。

1972年、トーレはオールスターゲームでナショナル・リーグの三塁手として2年連続の先発出場を果たす。 しかし、このシーズンは打率.289、11本塁打、81打点という成績に終わった。さらに2年後、カージナルスは1974年10月13日、34歳のトーレをレイ・サデッキとトミー・ムーアとの交換トレードでニューヨーク・メッツに移籍させた。

■ニューヨーク・メッツ(1975-1977)

1975年にメッツに移籍したトーレは、メジャーリーグ史上3人目、ナ・リーグでは初の1試合4ダブルプレーを達成した選手となった。フェリックス・ミランはトーレの前の打席で4打席すべてシングルヒットを放ち、試合後の記者会見でトーレは自身の活躍について「これを可能にしてくれたフェリックス・ミランに感謝したい」とジョークを飛ばした。 1975年、トーレの打率が.247まで落ちたとき、彼の全盛期は終わったかと思われた。 1977年5月、メッツはジョー・フレイジャー監督を解任し、トーレを選手兼任監督に指名した。トーレは1970年代に3人の選手監督を務めたうちの2人目であり、他の2人は1975年と1976年にクリーブランド・インディアンスでフランク・ロビンソン、1979年にシカゴ・ホワイトソックスでドン・ケッシンジャーであった。 選手兼任監督として18日間、2打席に立った。 最後の打席は1977年6月17日、対ヒューストン・アストロズ戦(シア・スタジアム)。 彼は右飛に倒れ、現役生活にピリオドを打った。

人物

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ニューヨーク・ヤンキースの監督だったことで知られるが、幼いころからナ・リーグ贔屓でニューヨーク・ジャイアンツウィリー・メイズを応援し、ヤンキースは大嫌いだったと述べており、ヤンキースタジアムで初めてワールドシリーズを観戦したのは1956年10月8日のヤンキース対ブルックリン・ドジャース第5戦で、大嫌いなヤンキースが負けることを願って生まれ故郷のチームであるドジャースを応援していたものの、この試合でヤンキースのドン・ラーセンがワールドシリーズ史上初の完全試合を達成。観ているうちに新たな歴史が刻まれるのではないかと期待し、達成された時は小躍りした。後に1999年7月18日にはドン・ラーセンがヤンキースタジアムで始球式を行い、その試合ではデビッド・コーンがモントリオール・エクスポズを相手に完全試合を達成しているが、この時のヤンキースの監督をつとめていたのはジョー・トーリであった。「大嫌いだったヤンキースの監督をつとめるとは、人生とはなんと皮肉なものだろう」とスコット・ピトニアック著の「ヤンキースタジアム物語」の序文で述べている[8]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1960 MLN 2 2 2 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .500 .500 .500 1.000
1961 113 441 406 40 113 21 4 10 172 42 3 5 2 1 28 4 4 60 10 .278 .330 .424 .754
1962 80 248 220 23 62 8 1 5 87 26 1 0 0 2 24 2 2 24 6 .282 .355 .395 .750
1963 142 556 501 57 147 19 4 14 216 71 1 5 1 7 42 4 5 79 19 .293 .350 .431 .781
1964 154 646 601 87 193 36 5 20 299 109 2 4 0 2 36 4 7 67 26 .321 .365 .498 .863
1965 148 594 523 68 152 21 1 27 256 80 0 1 0 2 61 7 8 79 22 .291 .372 .489 .861
1966 ATL 148 614 546 83 172 20 3 36 306 101 0 4 2 4 60 8 2 61 18 .315 .382 .560 .942
1967 135 534 477 67 132 18 1 20 212 68 2 2 1 4 49 7 3 75 22 .277 .345 .444 .789
1968 115 464 424 45 115 11 2 10 160 55 1 0 0 1 34 7 5 72 15 .271 .332 .377 .709
1969 STL 159 678 602 72 174 29 6 18 269 101 0 0 0 5 66 13 5 85 10 .289 .361 .447 .808
1970 161 704 624 89 203 27 9 21 311 100 2 2 0 3 70 10 7 91 23 .325 .398 .498 .896
1971 161 707 634 97 230 34 8 24 352 137 4 1 1 5 63 20 4 70 18 .363 .421 .555 .976
1972 149 613 544 71 157 26 6 11 228 81 3 0 0 7 54 13 8 64 19 .289 .357 .419 .776
1973 141 596 519 67 149 17 2 13 209 69 2 0 1 1 65 14 10 78 20 .287 .376 .403 .779
1974 147 610 529 59 149 28 1 11 212 70 1 2 1 3 69 9 8 88 15 .282 .371 .401 .772
1975 NYM 114 400 361 33 89 16 3 6 129 35 0 0 2 0 35 3 2 55 22 .247 .317 .357 .674
1976 114 340 310 36 95 10 3 5 126 31 1 3 2 2 21 1 5 35 16 .306 .358 .406 .764
1977 26 54 51 2 9 3 0 1 15 9 0 0 0 1 2 1 0 10 3 .176 .204 .294 .498
MLB:18年 2209 8801 7874 996 2342 344 59 252 3560 1185 23 29 13 50 779 127 85 1094 284 .297 .365 .452 .817
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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捕手守備


捕手(C)




















1961 MLN
ATL
112 494 50 10 4 .982 10 29 28 .491
1962 63 325 39 5 4 .986 3 22 19 .463
1963 105 584 46 4 9 .994 11 29 21 .420
1964 96 518 46 3 4 .995 10 24 17 .415
1965 100 589 43 6 4 .991 13 51 24 .320
1966 114 607 67 11 9 .984 13 38 36 .486
1967 114 580 63 6 12 .991 16 48 42 .467
1968 92 492 37 2 7 .996 4 45 16 .262
1969 STL 17 90 8 1 0 .990 2 3 6 .667
1970 90 571 29 8 4 .987 5 49 22 .310
MLB 903 4850 428 56 57 .990 87 338 231 .406
内野守備


一塁(1B) 三塁(3B)
























1963 MLN
ATL
37 335 30 2 36 .995 -
1964 70 563 48 4 49 .993 -
1965 49 433 30 2 39 .996 -
1966 36 267 20 1 24 .997 -
1967 23 205 18 2 21 .991 -
1968 29 241 11 0 19 1.000 -
1969 STL 144 1270 83 6 117 .996 -
1970 1 12 0 0 0 1.000 73 68 133 11 12 .948
1971 - 161 136 271 21 22 .951
1972 27 234 16 4 17 .984 117 102 182 11 17 .963
1973 114 833 60 6 80 .993 58 48 68 6 3 .951
1974 139 1165 102 10 144 .992 18 8 19 4 1 .871
1975 NYM 24 111 9 4 12 .968 83 61 148 11 14 .950
1976 78 590 49 7 40 .989 4 3 3 0 2 1.000
1977 16 83 2 1 9 .988 1 0 1 0 0 1.000
MLB 787 6342 478 49 607 .993 515 426 825 64 71 .951
外野守備


左翼(LF)












1963 MLN 2 0 0 0 0 ----
MLB 2 0 0 0 0 ----

年度別監督成績

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位/
チーム数


ポストシーズン
勝敗
1977 NYM NL 東 117 49 68 .419 6 / 6 途中就任  
1978 162 66 96 .407 6 / 6    
1979 163 63 99 .389 6 / 6    
1980 162 67 95 .414 5 / 6    
1981 105 41 62 .398 5 / 6、4 / 6[a]    
1982 ATL NL 西 162 89 73 .549 1 / 6 NLCS敗退 0勝3敗
1983 162 88 74 .543 2 / 6    
1984 162 80 82 .494 3 / 6    
1990 STL NL 東 58 24 34 .414 6 / 6 途中就任  
1991 162 84 78 .519 2 / 6    
1992 162 83 79 .512 3 / 6    
1993 162 87 75 .537 3 / 7    
1994 NL 中 115 53 61 .465 (3 / 5)[b]    
1995 47 20 27 .426 4 / 5[c] 途中解任  
1996 NYY AL 東 162 92 70 .568 1 / 5 WS優勝 11勝4敗
1997 162 96 66 .593 2 / 5 ALDS敗退 2勝3敗
1998 162 114 48 .704 1 / 5 WS優勝 11勝2敗
1999 162 98 64 .605 1 / 5 WS優勝 11勝1敗
2000 161 87 74 .540 1 / 5 WS優勝 11勝5敗
2001 161 95 65 .594 1 / 5 WS敗退 10勝7敗
2002 161 103 58 .640 1 / 5 ALDS敗退 1勝3敗
2003 163 101 61 .623 1 / 5 WS敗退 9勝8敗
2004 162 101 61 .623 1 / 5 ALCS敗退 6勝5敗
2005 162 95 67 .586 1 / 5 ALDS敗退 2勝3敗
2006 162 97 65 .599 1 / 5 ALDS敗退 1勝3敗
2007 162 94 68 .580 2 / 5 ALDS敗退 1勝3敗
2008 LAD NL 西 162 84 78 .519 1 / 5 NLCS敗退 4勝4敗
2009 162 95 67 .586 1 / 5 NLCS敗退 4勝4敗
2010 162 80 82 .494 4 / 5
MLB:29年 4329 2326 1997 .538     84勝58敗
  • 各年度の太字年最優秀監督賞受賞
  • 順位の太字はプレーオフ進出(ワイルドカードを含む)
  • a  50日間に及ぶストライキによりシーズンが前後期に二分された。
  • b  232日間に及ぶ長期ストライキによりシーズンが中断したため、順位は暫定。
  • c  解任時の順位

タイトル

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表彰

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記録

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背番号

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  • 15(1960年 - 1968年)
  • 9(1969年 - 1977年)
  • 2(1974年日米野球)[9]
  • 6(1996年 - 2010年)

著書

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  • 『覇者の条件―組織を成功に導く12のグラウンド・ルール』 Joe Torre's Ground Rules for Winners: 12 Keys to Managing Team Players, Tough Bosses, Setbacks, and Success
共著・2003年4月発売。
  • 『ジョーからの贈りもの―若きサムライとの日々』
共著・2005年10月発売。日本に向けて書かれた作品。
  • 『さらばヤンキース―我が監督時代』 The Yankee Years
2009年3月発売。ヤンキース退団後の作品。

脚注

[編集]
  1. ^ “Clueless Joe” (英語). Daily News (New York: Mortimer Zuckerman). (1995年11月3日). http://www1.dailynewspix.com/sales/largeview.php?name=4QZ6MK87.jpg&id=112034&lbx=390193&return_page=searchResults.php&page=0 2009年3月3日閲覧。 
  2. ^ a b c 「トーレ監督がヤンキース退団 一時代の終焉」『スラッガー』2008年1月号、日本スポーツ企画出版社、2008年、雑誌15509-1、46 - 48頁
  3. ^ First person in Major League Baseball with 2,000 wins as manager and 2,000 hits as player” (英語). Guinness World Records. 2014年3月6日閲覧。
  4. ^ a b Torre turns down offer to return as Yanks' skipper” (英語). 2008年6月28日閲覧。
  5. ^ ESPN - Torre succeeds Little as Dodgers manager - MLB” (英語). 2008年6月28日閲覧。
  6. ^ Obama: 'Power of baseball' to change attitudes MLB.com (英語) (2016年3月22日) 2016年6月8日閲覧
  7. ^ 「国の為に戦うことを誇りに思うか」WBC米国代表が、今回は本気な理由 number.bunshun.jp
  8. ^ 早川書房刊 スコット・ピトアック著 松井みどり訳「ヤンキースタジアム物語」7-9ページ
  9. ^ B.B.MOOK 『日米野球80年史 1934 - 2014』 ベースボール・マガジン社、2014年、48頁。

関連項目

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外部リンク

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