カーティス・ギルド
カーティス・ギルド・ジュニア | |
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Curtis Guild Jr. | |
1905年頃 | |
在ロシアアメリカ合衆国大使 | |
任期 1911年8月17日 – 1913年4月24日 | |
大統領 | ウィリアム・ハワード・タフト ウッドロウ・ウィルソン |
前任者 | ウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル |
後任者 | ジョージ・T・マリー |
第43代 マサチューセッツ州知事 | |
任期 1906年1月4日 – 1909年1月7日 | |
副知事 | エベン・サムナー・ドレイパー |
前任者 | ウィリアム・L・ダグラス |
後任者 | エベン・サムナー・ドレイパー |
第39代マサチューセッツ州副知事 | |
任期 1903年1月8日 – 1906年1月4日 | |
知事 | ジョン・L・ベイツ ウィリアム・L・ダグラス |
前任者 | ジョン・L・ベイツ |
後任者 | エベン・サムナー・ドレイパー |
マサチューセッツ州下院議員 | |
任期 1881年 | |
個人情報 | |
生誕 | 1860年2月2日 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン |
死没 | 1915年4月6日(55歳没) アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ボストン |
政党 | 共和党 |
署名 |
カーティス・ギルド(Curtis Guild, 1860年2月2日 - 1915年4月6日)は、アメリカ合衆国の政治家。1906年から1909年まで第43代マサチューセッツ州知事を務めた。
生涯
[編集]青年期
[編集]カーティス・ギルドは、1860年2月2日にマサチューセッツ州ボストンにおいて、報道事業に従事する家庭に生まれた。同名の父親カーティス・ギルドは雑誌『Commercial Bulletin』を刊行し、芸術を愛し、ボストン市民協会の代表を務めていた[1]。
公職
[編集]ギルドはハーバード大学を卒業後、父親の新聞社に就職した[1]。その後、1881年にマサチューセッツ州下院議員に選出された[1]。
1891年、ギルドはマサチューセッツ州志願兵に参加し、1898年には准将に昇格した[1]。米西戦争の間、ギルドはキューバのハバナで検察官を務めた[1]。
州知事への就任
[編集]1903年、ギルドはジョン・ルイス・ベイツ知事の下でマサチューセッツ州副知事に就任し、続くウィリアム・ルイス・ダグラス知事の下でも州副知事を務めた。そして1905年、ギルドはマサチューセッツ州知事に選出され、1906年から1909年まで知事職を務めた。
暗殺未遂
[編集]1907年、精神病院から逃亡した患者が短銃を携えてマサチューセッツ州会議事堂に逃げ込んだ。その患者は同州リンから訪問していた労働組合の代表エドワード・コーエンを発見すると、その人物が州知事ギルドであると誤認し、短銃を発砲した[1]。
晩年
[編集]知事退任後、ギルドは共和党の副大統領候補の1人として選出された。だが予備選挙においてギルドは敗退した。ギルドはその後1911年から1913年まで合衆国の駐ロシア特命全権大使を務めた[2]。
1915年4月6日、ギルドは死去した。ギルドの遺体は、マサチューセッツ州ボストンのフォレスト・ヒル墓地に埋葬された。
栄誉
[編集]東ボストンにあるカーティス・ギルド小学校は、州知事としてのギルドにちなんで名づけられたものである。
参考文献
[編集]- ^ a b c d e f Governors of Massachusetts - Curtis Guild, Jr. Retrieved April 18, 2006.
- ^ http://www.state.gov/r/pa/ho/po/com/11152.htm